はじめに
ウェルビーイング経営とは、従業員の心身の健康や幸福感、仕事へのエンゲージメントを高める施策を通じて、従業員が生き生きと働ける職場を実現し、生産性や創造性の向上につなげる経営手法です 。少子高齢化や人材競争の激化に伴い、従業員のウェルビーイング(幸福度)は人的資本経営の重要指標として注目されており、その維持・向上が企業の持続的成長のカギになると考えられています 。本レポートでは、ウェルビーイング経営が企業にもたらす具体的な経営効果について、以下の観点から整理します。
生産性・業績への影響
ウェルビーイング経営によって従業員の心身の状態が良好になると、集中力や意欲が増し、新しいアイデアが生まれやすくなるため、組織全体の生産性や業績向上が期待できます 。実際、国内外の調査で以下のような成果が報告されています:
生産性・創造性の向上: ハーバード・ビジネス・レビュー掲載の研究によれば、幸福感の高い社員はそうでない社員に比べて創造性が3倍、生産性は31%高く、営業成績(売上)は37%高いことが示されています 。同様に、オックスフォード大学の調査では「自分は幸福だ」と感じている労働者は「不幸だ」と感じている労働者より生産性が13%高いという結果も報告されています 。
業務効率化の事例: 日本マイクロソフトが2019年に実施した週休3日制の試験では、従業員一人当たりの売上生産性が前年同月比で約40%向上するという顕著な効果が確認されました 。これは勤務時間短縮に伴い会議の効率化や従業員の集中力向上が実現したためで、働き方改革(ウェルビーイング向上策)の業績面でのメリットを示す好例です。
欠勤の減少: 従業員の幸福度が高まると健康状態も改善し、欠勤率が41%低下するとのデータがあります 。欠勤(日数)の減少はそのまま出勤日数・稼働時間の増加につながり、生産性ロスの防止効果があります。加えて、職場の心理的安全性やストレス軽減といったウェルビーイング向上施策により、プレゼンティズム(出勤しているが心身不調で生産性が低下している状態)の改善も期待でき、結果的に業務効率が向上します。
以上のように、ウェルビーイング経営は従業員一人ひとりのパフォーマンスを底上げし、企業のイノベーション創出や売上拡大に寄与します。心身ともに良好な状態で働く社員が増えることで、組織全体として高い生産性を維持できるのです。
離職率・定着率への効果
従業員のウェルビーイング向上は、離職率の低下や定着率の向上にも直結します。社員が職場に満足し健康であれば、会社への愛着や貢献意欲が高まり、長く働き続けようとする傾向が強まるためです。実際のデータや事例を見てみましょう:
離職率の低下: 前述のHBR研究では、幸福度の高い社員はそうでない社員に比べて離職率が59%も低いことが明らかにされています 。ウェルビーイング経営に取り組むことで社員の会社に対する肯定的感情が高まり、「この会社で働き続けたい」という意識が醸成されると考えられます。
定着率向上の事例(サイボウズ): グループウェア開発で知られるサイボウズ株式会社では、2000年代半ばに**離職率が28%に達し業績も悪化する危機的状況に陥りました 。そこで「社員が長く働ける環境づくり」を掲げて制度改革や働き方の柔軟化(在宅勤務の導入、副業容認など)を進めた結果、現在では離職率が1桁台(10%未満)**にまで改善しています 。この劇的な離職率低下は、従業員のニーズに応えるウェルビーイング施策が定着率向上につながった好例と言えるでしょう。
人材流出コストの削減: 離職者が減り定着率が上がることは、人材採用・育成にかかるコスト削減にも寄与します。新規採用や新人教育には多大な時間・費用がかかりますが、ウェルビーイング経営によって既存社員のエンゲージメントが高まり離職防止につながれば、これらのコストを削減できるだけでなく、熟練社員が蓄積したノウハウが社内に残り続けるため組織力の維持・強化にもつながります。
このように、ウェルビーイング経営は従業員の定着率を高め、人材面での安定性をもたらします。社員が長く安心して働ける職場は、企業にとって貴重な人的資本を守り、高いチームワークやサービス品質の維持にもつながります。
従業員エンゲージメント・モチベーションの向上
ウェルビーイング経営の推進により、従業員の会社や仕事に対する**エンゲージメント(愛着・貢献意欲)やモチベーション(意欲・やる気)**も大きく向上します。社員が心身ともに満たされた状態で働ける職場では、「仕事を自分事として捉える」主体性が生まれ 、組織へのコミットメントが強まるためです。いくつかポイントを挙げます:
エンゲージメントが高い状態: ウェルビーイングが高い従業員は、そうでない従業員に比べて仕事への没頭度(コミットメント)やモチベーションが高い傾向にあることが研究から示されています 。職場環境や人間関係が良好だと、「会社やチームに貢献したい」「仕事をやり遂げたい」という前向きな姿勢が育まれ、結果として従業員エンゲージメントが高まります。
主体的な業務遂行: ウェルビーイング経営の下では、従業員が心理的安全性のある環境で自分の意見やアイデアを言いやすくなり、自発的に問題解決や業務改善に取り組むようになります 。例えば、従業員満足度の高い企業では「自分の仕事が会社の目標達成に寄与している」と実感する社員が増え、チームの一体感や協力体制が強化されることが知られています。
モチベーション維持とメンタルヘルス: 従業員のモチベーションは、評価・報酬だけでなく働く環境や健康状態によって大きく左右されます。ウェルビーイング経営により適切な休養や柔軟な働き方、メンタルヘルスケアの制度(例:カウンセリングやマインドフルネス研修等)が整備されると、社員は安心して働けるようになり意欲の持続や仕事への情熱の回復が促進されます。その結果、組織全体でエンゲージメントが底上げされ、高い士気(モラール)を保つことができます。
エンゲージメントやモチベーションが高い職場では、生産性向上や離職防止といった好循環が生まれます。ウェルビーイング経営によって社員のやる気と会社への愛着心が高まれば、企業の活力と競争力も自ずと向上していくでしょう。
企業ブランディング・採用力への貢献
従業員のウェルビーイングに配慮する企業は、社外からの評価も高まり企業ブランドの向上や採用競争力の強化につながります。近年、求職者や投資家は企業の社会的責任(CSR)や社員幸福への取り組みに注目しており、ウェルビーイング経営を実践する姿勢そのものが企業イメージを良くする要因となっています 。具体的な効果として以下が挙げられます:
ブランドイメージの向上: ウェルビーイング経営に努める企業は「従業員を大切にしている会社」として世間から認知されやすく、顧客や取引先からの信頼感醸成につながります 。社員の幸福に配慮することは単なる福利厚生やCSRに留まらず、「持続的に社員と社会の両方に価値を提供する企業」というブランドメッセージを発信することにもなります。その結果、企業の評価額や顧客ロイヤルティの向上といった効果も期待できます。
採用力・人材獲得力の強化: 働きやすく魅力的な職場環境は優秀な人材を惹きつけます。ウェルビーイング経営を実践する企業では、現社員から発せられるポジティブな社内雰囲気の情報発信や、「働きがいのある会社ランキング」への選出などを通じて、求職者からの人気が高まります 。その結果、応募者数が増加し、採用選考では自社のミッションや文化に共感する人材を確保しやすくなる利点があります。実際に、ウェルビーイングとエンゲージメント向上に取り組む企業は社会的な評価が高まり、企業ブランド価値と採用力の向上に効果的であると指摘されています 。
顧客・投資家からの評価: 従業員を大切にする企業文化は、顧客や株主などステークホルダーから見ても好ましいものです。社員の幸福度が高い企業は長期的な成長が期待できる健全な企業とみなされる傾向があり、株式市場や業界内での評価も向上します 。実際に「健康経営銘柄」に選定されるような企業では企業価値や株価が高いとの調査結果もあり 、ウェルビーイング経営の姿勢が対外的な企業評価を押し上げる要因となっています。
このように、ウェルビーイング経営に取り組むことは従業員満足度の向上だけでなく、企業のレピュテーション向上や人材競争力の強化といった重要なメリットをもたらします。良い人材が集まり、社内外から信頼される企業風土は、長期的な事業発展の土台となるでしょう。
投資対効果(ROI)に関するデータと事例
ウェルビーイング経営への投資は費用以上のリターンを生むことが、さまざまな調査で示唆されています。いわゆる「従業員への投資」のROI(Return on Investment)は無形資産ゆえ測りづらい面もありますが、近年の研究や企業の実績から具体的な数値データが得られつつあります。以下に主要な知見をまとめます:
健康経営のROI: 従業員の健康増進策に早くから取り組んできたジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)は、1990年代以降の社内データを分析し、社員の健康・ウェルビーイングへの包括的投資1ドルあたり約2.7ドルのリターン(医療費削減等の効果)が得られたと報告しています 。実際、同社では2002~2008年の6年間で累計2億5千万ドルもの医療費コスト削減効果があったといいます 。このケースは、ウェルビーイング施策が長期的に見て大きな費用対効果を持つことを示す代表例です。
ROIに関する調査: ハーバード大学の分析でも、複数企業のデータをメタ分析した結果、従業員の健康・幸福に対する投資の平均ROIが3倍以上にのぼることが明らかになっています 。つまり、企業が従業員のウェルビーイングに1円投資すれば、将来的に医療費削減や生産性向上によって3円以上の価値がもたらされる計算になります。多くのHR担当者や経営者も、ウェルビーイングへの投資は「コスト」ではなく「利益を生む投資」であるとの認識を強めています。
利益率・企業業績への影響: 従業員のウェルビーイング指標と企業財務指標の関連を分析した研究では、従業員ウェルビーイングが高い企業ほど営業利益率が高く、株価も好調である傾向が報告されています 。これは、社員の高い生産性や定着率向上が業績に寄与し、中長期的に見て収益力や企業価値を押し上げる効果を持つためと考えられます。実際、日本においても「健康経営」に積極的な上場企業の株価が市場平均を上回るパフォーマンスを示した例があるなど、ウェルビーイング経営の投資対効果は無視できません。
以上のようなエビデンスから、ウェルビーイング経営への投資は充分に経済的合理性があると言えます。従業員の幸福を追求することが結果的に企業の医療コスト圧縮や生産性向上、さらには株主価値の増大に結びつき、「従業員満足」と「経営成績」の双方を高めるWIN-WINの関係が成立するのです。
国内外の企業事例・調査データ
最後に、ウェルビーイング経営の効果を示す国内外の具体的な企業事例や大規模調査データをいくつか紹介します。
サイボウズ(日本): 前述の通り、サイボウズ社は離職率28%という危機から徹底した働き方改革によって社員の幸福度を向上させ、離職率を1桁台まで低減しました 。在宅勤務制度や複業(副業)解禁、部署を超えた対話の促進など柔軟な制度を次々導入した結果、業績も回復し「働きがいのある会社」として高く評価されるようになっています。これは、社員のウェルビーイング向上が人材定着だけでなく業績回復・企業イメージ向上にも貢献した例です。
日本マイクロソフト(日本): 2019年に全社員を対象に実施した「ワークライフチョイスチャレンジ」(週休3日制の試行)の成果として、1人当たり売上生産性が40%増加し、有給休暇の消化率も大幅に向上しました 。短時間勤務でも高い成果を上げられることを示したこの実験は、日本企業におけるウェルビーイング経営の効果を象徴する事例となりました。従業員からは仕事と私生活のバランス改善に対する満足の声が多く、社員エンゲージメントの向上も報告されています。
ジョンソン・エンド・ジョンソン(米国): 世界的企業であるJ&Jは、1980年代から従業員の健康増進プログラムに投資してきた先進企業です。その内部分析によれば、健康経営への投資によって10年で約2.5億ドル(約250億円)もの医療費削減を達成し、投資額に対して約2.7倍のリターンを得たとされています 。この成功事例は各国で広く紹介され、他企業がウェルビーイング施策に取り組む際のROI試算の根拠ともなりました。J&Jは従業員の喫煙率や高血圧割合の大幅な低減にも成功しており、社員の健康・幸福が企業にもたらすメリットを実証した形です。
大規模意識調査(日本・海外): 三菱UFJリサーチ&コンサルティングが2024年に実施した約2万人規模の調査では、ウェルビーイングの高い従業員ほど創造性・生産性が高く、離職意向が低いことが改めて確認されています 。また、米ギャロップ社の国際調査でも「従業員エンゲージメントの高い企業は営業利益や生産性が20%以上高い反面、離職率は大幅に低い」といった傾向が報告されています 。これらのデータは、国や業種を超えてウェルビーイング経営の有効性を裏付けるものです。
おわりに
従業員の幸せと会社の業績向上は相反するものではなく、ウェルビーイング経営によって両者を両立できることが、数多くのエビデンスや事例から示されています。従業員の生産性・創造性の向上、離職率の低下、エンゲージメントやモチベーションの向上、そして企業イメージや採用力の強化といった効果は、最終的に企業の持続的な発展につながるものです。社員一人ひとりが心身ともに健康でやりがいを持って働ける職場を築くことが、これからの経営において極めて重要な戦略となるでしょう。そのための投資は十分なリターンを生み出すことが明らかになっており、ウェルビーイング経営への取り組みは企業価値向上の鍵を握ると言えます。
参考文献・出典:
前野隆司「従業員の“幸福度”が、企業が成長するカギになる ~従業員ウェルビーイングとは?」NEC Wisdom記事(2023年) 他
Salesforceブログ「専門家解説:日本の労働生産性低下の主因を分析(後編)」(2025年)
三菱UFJリサーチ&コンサルティング「会社員のウェルビーイングとエンゲージメントに関する2万人調査結果」(2024年)
サイボウズチームワーク総研「離職率28%時代のサイボウズが行ったウェルビーイング推進とは」(2022年)
CNN.co.jp「日本マイクロソフト、週休3日制で生産性40%向上」(2019年)
Harvard Business Review “What’s the Hard Return on Employee Wellness Programs?”(2010年)
経済産業省「健康経営は高リターン」(2020年) 等
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